その事に気づいたのが、京都駅について、友人と別れてからで、その時から思い出そうと頑張っているのに、今もなお、全然思い出せない。記憶が削除されたかのごとく。
やはり、意識というものは、エピソード記憶をするためにあるという、受動意識仮説は、やはり、本当なのかもしれない。
意識がなければ、記憶もないわな。なら、記憶の為に意識があるというのも不自然ではないね。
アルコールによって、意識を司る部分が一時的にでもマヒしていたのなら、記憶はなくなるね。しかしこの自分の体は、新快速に急いで乗らなければ、と階段を駆け上がっているという場面まで、無意識の間に何者かが、運んでくれたというわけさね。
なら、死ぬまで無意識でもいいけどね。


